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July 2003

引きこもり、など

カウンセラーの富田富士也先生のワークショップに参加した。

朝に起きた電車の人身事故の話から、年間3万人に及ぶ自殺についての説明があった。
そう単純ではないのだと思うけれど、団塊の世代という50代にとって今の社会では、身についていた価値感や信念の崩壊が起きている、というのが大きな原因だという。
団塊の世代が生まれたころは、人とは信じるものであって、年功序列も当たり前であって(会社は自分を裏切らない)、「頑張れば報われる」時代だった。
今は「頑張っても報われない」時代。会社や人から裏切られるのは当たり前で、基本的に人は信用するものではないような風潮。
人を蹴落とすような時代にあって、当たり前に存在していた「人を思いやる心」は消えて、効率をあげることに躍起になる。
自分の価値感、存在意義などがボロボロに消えていくという恐怖...。
そこで自殺しか選択肢がなくなってしまう現実はあまりに悲しい。お父さんたちが悪いわけじゃないのに。

50代の次に多い自殺者は、その子どもたち、団塊ジュニア世代だという。なんと、私もそこに該当した。

人を信用するものではない、というような基本が横たわっている時代に生まれた子どもには、さまざまな人間関係障害が増えている。
「引きこもり」「不登校」「脅迫性障害」。それらの象徴的な事件が、神戸の少年事件と、長崎の少年事件だという。
「そうせざるを得ない」少年の心を、ワークショップで自分と重ねながら深めていくと、その苦しみはものあまりにも大きいとあらためて感じた。

神戸の少年の場合、事件後、20数人の大人が彼にかかわったという。少年が拒絶しようと何しようと、心に優しく入って、「いいんだよ、何でも話してごらん」という態度をとった。少年は、それまでそんなに人が自分と絡んでくれた経験がなかったに違いない。
今は、あまりに大きな罪の意識にさいなまれていると、新聞に出ていた。
現在の少年犯罪の多くは、事件直後は少年に罪の意識はほとんどないのだそうだ。そうやって、自分のことを本気で考えてくれる人との出会いを通して、徐々に良心が芽生えてくるのだという。

神戸の少年はことし秋に社会に出る。自分が人を(しかもむごい形で)殺したという事実は、今後、死ぬまで背負わなければならないし、周囲の目もあまりにも厳しいと思う。
多分、彼にこの5年間かかわってきた大人は、今後もずっと見守り続けるのだろうと思う。それが、彼にとって救いなのではないかな、と思う。

世の中には、寂しさや孤独の中で生きている人はあまりに多いのだろうなと感じる。

今後どう生きようかと思うとき、人を先入観や思い込みで判断するのではなく、とにかく心をいつもその相手に空けてみる、という姿勢を取りたいと思う。
社会にあふれている、人間関係がうまくいかない人に対して、私まで色眼鏡で見ることなしに、すべての出会いに「ありがとう」と言いたい。

その前に、今まで出会った人1人1人との関係をもっと大事にしなければいけないとあらためて思う。

富田先生の言葉
「百の心(いい心も悪い心もある人間)をくくって(受け止めて)、憂。これに目覚めてこそ優しさ」


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目の中の丸太

数ヶ月ぶりに、仕事に対してやる気が出てきました。上司が変わって以来、その人に気に入られたい、評価されたいと思い続けて、それで疲れちゃったようです。
仕事ができないと思われたくないのに、「きっとできないと思われている」という勝手な妄想が恐怖となって、心も体も小さくなっていました。
重ねて、世の中のネガティブな雰囲気に呑まれ、ネガティブという名の螺旋階段を少しずつ降りていたような気がします。

今はその階段を二段抜かしして上に向かって歩いている状態です。
数ヶ月先の仕事の整理をしながら「なんだ私、やれるよ、大丈夫じゃない」と思い込むことができました。良かったことです。

ただ、ここまで来るには、いろんな人が話を聴いてくれたり、反論してくれたり、アドバイスしてくれたお陰なのです。本当にありがたい。
上向きの螺旋階段は方向を変えればすぐに見えるものです。何かきっかけがあるわけではないので不思議な気分ですが、ともかく、上に向かえたのは嬉しいことです。

この1、2週間は自分について少し理解する時間になったように思います。昨日ハッと思ったのは、私は多分、上に立つ人間になったらとても抑圧的になるんじゃないかな、ということです。
幸い「長」と付くことがないだけで、もし「先輩」とか「長」になったら、「教えなければ」「弱みは見せられない」という思いが先に立って、多分「上から下」の視点を持つだろうと思うのです。
考えてみたら、高校の「部長」時代も後輩に弱みを見せまいとして「上」に立ってました。対等の視点に立っていた友人の方が、後輩から慕われていたと思います。

日頃、上に立つ人間はへりくだらなければ、などと偉そうなことを言っているのは、自分がその存在になったことがないからだろうなあと、昨日思い至ったわけです。

私の場合、自分は傲慢だ、と本心から認めることは大事なのでしょうね。
「人の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気付かないのか」(「人を裁くな」というキリストの教え)という言葉、最近これがテーマとなってましたが、ようやくストンと落ちました。

さらに、自分の記者という仕事も「伝えてあげなければ」という傲慢な姿勢があったに違いないのです。
友人Kちゃんが「記事とは、ただただ事実を温かく包み込むことでもいいのではないの?」と言ってくれました。
これはなかなか理想的ですが「我」「欲」があると難しいと感じます。私の「道」はまだまだ探求中です。

最後に、日記上であまりに悲観的な書き方をしていたので一部に心配をかけてしまいました。
私は元気です。


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罪びとの共同体

何が善で何が悪か、
何が正義で何が不正か
なんて、人間の目からわかるわけがない。そう思う。でも、そう思っている限り、言葉には力がない。
抑圧という経験があるのとないのとでは、気の持ちようも異なるのかもしれない。

最近どうもネガティブ思考だ。
でも、今のご時世、ハッピーと心から言える人なんて、どれくらいいるのだろう。あまりいないんじゃないかしらん。

ある人が先日「人は皆やぶれかぶれ。地上に生きている人は罪びとの共同体です」と言っていた。
そのときはよく分からなかったが、人類は皆罪びと同士で、互いに補い合いながらでないと生きていけないということを言っていたのだと、今になって思う。
だから人は人を裁けないし、だれかを悪く言うことは結局自分に返ってくる。
ある犯罪者を庶民が断罪する。よくある話だ。以前kumが、「自分の中にある犯罪者の部分を、特定の人に負わせることで、人は安心するのでは」と話していたことがある。
これも今にして、ようやく理解できる。

人は補い合いながら、共に解放される道を歩んでいければいいと思う。

もっと凛として生きたい。ネガティブから解放されたいものだ。

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新谷のり子さん

歌手の新谷のり子さんに会った。ベトナム戦争時、「フランシーヌの場合」を歌って、一躍「反戦歌手」として有名になった人。戦争後も、平和の「歌たち」を子どもたちに伝え続けている。
とても気さくで、笑顔がきれいな女性。

今は、大阪の釜ヶ崎と呼ばれる、労働者の街に定期的に出かけ、テルミンという温熱療法で「おっちゃん」(新谷さんは、愛情を込めてそう呼ぶ)たちを和ませている。
釜ヶ崎に行くようになってから、坊主頭にしたらしい。

2月と6月、パレスチナに行ったという。そこで、難民キャンプを訪れ、歌を歌いながら人々と出会った。イスラエル軍による大虐殺のあったジェニンキャンプでは、子どもたちは精神的に自分を守ろうとするためか、一様にハイになっていて、踊ったり手を上げて走り回ったりしていた姿が痛々しかったという。
アラファト議長と会ったとき、「何か欲しいものがありますか」と聞くと「何もいらない。われわれは服も食べ物も住むところも、仕事もない。出産のために救急車に乗った妊婦が、軍による検問に引っ掛かり、気付いたら母子ともに死んでいるなどということは日常茶飯事。だから何もいらない。ただ、ここに私たちがいるということを忘れないでください」と言われたという。

新谷さんは、自分の乗った外務省の車が日章旗を付けて悠々と検問を超えたとき、涙が出て仕方なかった、と話してくれた。ここにしか生きられない彼らを置いていく自分が悔しくて、帰国後も精神的に追い詰められて泣く日が続いたそうだ。

お酒を飲みながら、新谷さんと夜中まで語り合った。
私はいつも、「偽善者である自分」を感じて生きている。そのことを話すと、驚いたことに新谷さんも「私もそうよ」と言う。それを超えるには、ただ目の前のできることをすることなのよね、と、40歳でカトリックの洗礼を受けた彼女は教えてくれた。

戦後、猛然たる左翼団体に所属していた新谷さんは、「その左翼団体に欠けていたのは、人に対する優しさと思い。苦しくて、すぐにやめてしまった」。カトリックの教えにであったとき、安心するものを覚えたという。
毎日のように厳しい現実と触れ合う中、絶望をすることはないのか、と聞くとそれには答えず、「希望という言葉が、ジェニンなど極限状態にある人たちの口から出るとその重みに胸が締め付けられる」と話してくれた。

釜ヶ崎の「おっちゃん」と接するときは、自分をカラッポにするのだそうだ。そうして、相手を受け入れる。やがて、日々神経を尖らして路上で生きている「おっちゃん」は新谷さんの前で寝息をたて始めたり、自分の過去を語り出したり、人によっては涙を流し始めたりする。
「私が」と言い出したら、途端に相手をシャットアウトしてしまう、という。

新谷さんと出会えて幸せだった。

ここ数日感、絶望感で胸が張り裂けそうだったのがウソのように、私にも幾筋かの光が見えてきた。
身近なところから…。人との出会いは、人間を信じる上で、最も近道なのだと思う。

「深い祈りと、『絶えず喜んでいなさい』というイエス・キリストのことばを支えに生きている」
新谷さんに教わったことを忘れないでいようと思う。


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悲しみこらえ

身近なところに、9月に結婚を予定していた婚約者を交通事故で亡くした人がいたことを知った。
つい1ヶ月前のことらしい。

つい自分と重ね合わせてしまう。
彼女の苦しみはどんなだろう。
私なら…想像を絶する。身をズタズタにされる思いがする。
彼女はとても明るく、笑顔の美しい子。婚約者が亡くなった直後、「最悪なんです~」と、笑いながらそのことを話していたという。
笑える状況じゃないのに…
すごい子だと思う。でも、心の中はどれだけ悲しみに満ちているのだろう。
人から聞いた話なので、直接声を掛けることはできない。こういうとき「祈る」しかないのだと、そう思う。
きっと「大いなる存在」が、よくしてくれると信じて…。

同じ職場に、結婚後1年で奥さんを亡くした人も働いている。もう10年になるらしい。その人も、笑顔が素敵だ。

愛する人を失い、悲しみをこらえてけなげに生きている人たちがたくさんいることに気付かされる。

kumと並んで悲しい話題になってしまった。どういうHPなんだ。迷いながら、救いの道を見出して生きていきたい。


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